日刊マイログ 120
こんな記事を読んだ。
R-style » 【書評】『たった一度の人生を記録しなさい』(五藤隆介)
日本型のライフログは日記の延長線上にある。それを示すように本書には次のような表現が出てくる。
”自分の頭が反応して、自分の手で記録を残す。そういった「手間」があるから、日々の発見があるのだと思います。”
意識を介在させ、選択すること、それが重要だというわけだ。これは梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』に連なる考え方だ。その本の中では
”メモ魔といわれる人でも、じつは、ほんとうになんでもかんでも、かきつけているわけではない。そこには、おのずから選択眼がはたらいて、対象をよりわけているのである。何と何を記録し、何をみのがすかによって、そのメモの利用価値はおおいにことなるのである。”
と、書かれている。この「選択眼」のはたらきが、記録を残す行為そのもの、そして残された記憶に意味を与えることになる。
こないだの記事でライフログを取る作業はできるだけ簡略化して楽にしたほうが良いとか言っておきながら、この記事を読んでログを取る手間の必要性になっとくしてしまった。
大学時代に銀塩の一眼レフカメラにハマったことがある。しかも中古のマニュアルフォーカスカメラとかを好んで使っていた。一部電池式の機構でありながらほとんどが機械で成り立っているマニュアルカメラが鳴らす、驚くほど静かで軽やかなシャッター音や、手動でピントをあわせる時に「像」がくっきりと浮かび上がってくる感覚が好きだった。
その頃は出来上がった写真よりも、撮影するという行為そのものに意味を見出していた。
ライフログもログを取る行為自体に意味を見いだせるのではないか。
行為が意識へのフィードバックを働かせる。
今日の病院からの帰り道、あまりにもいい天気だったのでふと寄り道をして公園で休憩して写真を撮ったりした。昔の自分なら考えられないことだ。なぜそんなことをするようになったかと聞かれれば、ライフログを取る様になったからと答えざるを得ない。ライフログを取っていると、周りに記録すべきものがないか探してしまうようになる。その結果生まれた行為だと思う。そしてその行為が日々を特別なものにしてくれる。そんな気がする。